セキ美術館

コレクション紹介

明治から昭和の巨匠による近現代日本の日本画・洋画。そして、ロダンの大理石彫刻「ファウナ(森の妖精)」など、多数のコレクションを所蔵しています。美術館顧問による詳しい作品解説もご覧ください。

日本画

・伊東深水
《南枝》
・猪熊佳子
《Silver Snow》
《青い鳥》
《煌めく森 温身池》
《花咲く森へ-クリンソウ》
・上村淳之
《紅猿子》
《秋映》
《春雪》
《黄鶺鴒》
《千鳥》
・上村松園
《汐くみの図》
・上村松篁
《ウォーターヒヤシンス》
《燦》
・小倉遊亀
《椿》
・加山又造
《飛ぶ黒い鳥》
《日輪》
《冬》
《白い道》
『中央公論』表紙絵原画 1976年
《凝》
《夜桜》
《着物》
《飛翔》
《双華》
・川合玉堂
《緑蔭飛瀑》
・川端龍子
《彩麟》
《眠る天使像》
《鶯宿梅》
・小泉智英
《染めゆく》
・小杉放庵
《花咲翁》
・小林古径
《春夜》
・今野忠一
《涼気》
《月山》
・下村為山
《平安長春》
・杉山 寧
《薫》
・鈴木竹柏
《流れ》
・髙山辰雄
《朧》
《春の気》
《花を持つ少女》
・田渕俊夫
《花かげろう》
・坪内滄明
《雪林》
《桜苑》
《緑深》
《富岳永美》
・中島千波
《花芙蓉》
・中村岳陵
《早春》
・野村義照
《鐘》
《咲き残るひまわり》
《マントバの騎馬像》
・稗田一穂
《弦影》
・東山魁夷
《静宵》
・平山郁夫
《白毫寺》
《石の家》
・前田青邨
《風神雷神》
《桃花》
《大阪城》
・牧  進
《秋の気》
《夏日》
《ばら》
・松下 明生
《ウィーンの屋根》
《祈り》
・松村 公嗣
《舟唄》
・松本 勝
《椿》
《紫陽花》
・棟方志功
《円窓妃図》
・森田曠平
《家路》
《桜川》
《龍田の乙女》
・山口蓬春
《柑子》
《椿》
・横山大観
《孔明》
《初夏竹林》
《勅題 田家朝》
《海暾》
・横山 操
《暁富士》
《冬富士》

洋画

・浅井 忠
《京都風景》
・池田清明
《ドガの画集》
《ルナレス》
・牛島憲之
《水郷》
・梅原龍三郎
《扇面裸婦図》
《池畔》
・大藪雅孝
《カサブランカ》
・岡鹿之助
《ラヴェル礼賛》
《建設地帯》
《三色菫》
・荻須高徳
《ヴェニスのヴィドマン運河》
《魚市場》
・香月泰男
《牡丹》
・金山平三
《ヴェニス》
・国吉康雄
《馬を選ぶ》
・熊谷守一
《峠ぶきに蝶》
・黒田清輝
《ブレハの村童》
・小磯良平
《少女像》
《少女》
《窓の静物》
《聖母子》
《シャルトル風景》
《室内婦人》
《外国婦人》(1970年)
《外国婦人像》(1972年)
《ヴァイオリンと西洋人形》
《音楽》
《西洋婦人》(1979年)
《椅子にかける女》
《婦人像》
・小絲源太郎
《道》
《パンジー》
《杏丘》
《冬空》
・児島善三郎
《ダリア》
《静浦の朝》
・小林和作
《秋山(谷川山中)》
・坂田虎一
《連翹と猫》
《蓮》
・芝田米三
《音楽祭が始まる
 ザルツブルグの丘》
《粧いの譜(ウインの空)》
・下村為山
《海浜図》
《雪景図》
・進藤 蕃
《赤いスペインセゴビア》
《雲霧》
・鈴木信太郎
《桃の静物》
・須田国太郎
《秋景》
《薔薇》
《鷲》
・須田 寿
《卓上静物》
・曽宮一念
《とうもろこし》
《湾岸風景》
《にえもん島》
《函館(ガンガン寺)》
・高間惣七
《鳥(小綬鶏)》
・鳥海青児
《かいうと伊賀壺》
《芥子》
《けしムギワラ手》
・寺内萬治郎
《裸婦》
・東郷青児
《遥かなる山》
・中根 寛
《岬の村》
《潮路春暁》
《松山城春景》
・中野和高
《海・早朝》
《芦ノ湖の春》
・中村清治
《コーヒーひきの静物》
《婦人像》
《イチゴ等の静物》
・中山忠彦
《花のブラウス》
《古風な首飾り》
・西村龍介
《水辺の城》
《湖畔の城》
・野間仁根
《クレタ島のラビリンス》
・長谷川利行
《風景》
・林  武
《舞妓》
《薔薇》
・藤島武二
《ヴェニス》
《風景》
・藤田嗣治
横光利一『旅愁』 挿絵 No.2
横光利一『旅愁』 挿絵 No.44
《婦人像》
・三岸節子
《花》(1950年代)
《花》(1991年)
《銅像頭部と鳥籠》
・宮本三郎
《ぶどう》
・山田茂人
《旭》
《花》
・脇田 和
《マニラの子供》
《花に来る鳥》
・和田英作
《バラ》
《風景》

彫刻・版画

[ 彫刻 ]

・オーギュスト・ロダン
《ファウナ(森の妖精)》
《ヴィーナス あるいは フローラ》
・エミール=
 アントワーヌ・ブールデル
《岩に立つベートーベン》
・石井厚生
《時空・111》

[ 版画 ]

・オーギュスト・ロダン
《世界を導くキューピッドたち》
《春》
《ロンド(輪舞)》
《ヴィクトル・ユゴー(正面向き)》
《ベローナの胸像》
《アントナン・プルースト》
《煉獄の精霊》
《アンリ・ベック》
 オクターヴ・ミルボー
『折檻の庭』挿絵 (21枚組)
・アンデルス・ソーン
《ロダンの肖像》
・オーギュスト・ルノアール
《ロダンの肖像》
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《秋映》

上村 淳之

1933(昭和8)-

日本画・紙

91.0×65.0cm

千鳥の仲間のケリが、干潟l物を狙う。このケリ、近畿地方に多く棲む鳥で、以前はsの池の岸辺や田でもよく見られた。作者の上村淳之は、言うまでもなく、京都における近代日本画の発展を担った二人の大画家の血を引く。祖母は美人画の上村松園、父は花鳥画の上村松篁である。淳之にとって、このケリは親しい鳥のひとつであるに違いない。秋色の画面に描かれた愛らしい主役の脚元には、金の落葉がひとひら浮ぶ。季節の詩情溢れる上村淳之独自の小宇宙である。
汐くみの図
《汐くみの図》

上村 松園

1875(明治7)-1949(昭和24)

日本画・絹

143.0×52.0cm

松園は、日本の女流画家の最高峰であり、近代美人画の第一人者である。松園は、『序の舞い』(東京芸術大学蔵)を描いた1936(昭和11)年前後からの数年間に画作の一つのピークを迎えた。この『汐くみの図』も、同じ頃に描かれた秀作であり、松園芸術を代表する一点なのである。軍国主義が社会の隅々に支配を広げていった時代に、舞踊の「夕汲み」を題材に、女性のたおやかさを見事に表現し、着物や装身具や小物によって日本伝統のこまやかな美意識を余すところなく伝えた松園は、実に強い女性であった。
《燦》

上村 松篁

1902(明治35)-2000(平成12)

日本画・紙

46.2×61.2

松篁は、明治・大正・昭和の三代にわたって活躍した女流画家、上村松園の子息として京都に生まれた。母は美人画の巨匠であったが、松篁は、ほぼ一貫して花鳥画を描き続ける。奈良郊外の画室には、さまざまな鳥を飼育して観察するための施設が設けられた。南の島の鳥と花を描いたこの作品も、命の喜びを謳う典型的な松篁の花鳥画である。母子ともに文化勲章を受章。現代花鳥画の大家である敦之は、松篁の子息、松園の孫にあたる。
《日輪》

加山 又造

1927(昭和2)-2004(平成16)

日本画・紙

74.0×100.5cm

加山又造画伯は、現代の日本画壇を代表する作家の一人である。画伯は、東洋の絵画の長い伝統に育まれた、あらゆる画法と技法を駆使して、絢爛にして多彩な独自の世界を築いてこられた。そして、《日輪》は、その画業の比較的早い時期を代表する一点なのである。揉んだ金箔の上に塗られた赤は業火のごとく重い光を放ち、枯れた枝の細い骨のようなシルエットが目を射る。日本画伝統の装飾性に新たな命を与えて、画伯は、現代人の孤独を鋭く表現したのである。
《白い道》

加山 又造

1927(昭和2)-2004(平成16)

日本画・紙

90.7×117.0

《白い道》は、加山又造の前半期の最高傑作の一つである。リアリズムと様式性が見事に融合した画面は、凍てつく大気や靴裏の硬い雪の感触までをも伝えている。そして、暗い空を舞う烏の群れに誘われて、私たちは、道の奥へと足を踏み入れる。そこは、孤独な魂が支配する寂寥の領国である。これを描いた時、加山は三十七歳。この道の彼方で、「昭和・平成を代表する巨匠」という頂点が画家を待ち受けていた。
凝
《凝》

加山 又造

1927(昭和2)-2004(平成16)

日本画・紙

64.0×89.0cm 1980年

庭に降りたペルシャ猫が、音もなく背後から飛んできた二匹の蝶に気付いてフッと頭を上げて振り返った瞬間である。まっすぐに伸ばされた前肢は次の動きに備え、見開いた眼の先の鼻にすべての感覚と注意が凝らされている。蝶の運命の極まった、時が凍る一瞬であろう。 小さな美しい狩人である猫は、次には身を宙に躍らせるに違いない。のどかな春の、しかし、生命のドラマを秘めた情景である。加山画伯の筆は、異国の猫の艶やかで豪奢な毛並みを見事に描き、当代随一の名手の面目躍如たるものがある。
緑蔭飛瀑
《緑蔭飛瀑》

川合 玉堂

1873(明治6)-1957(昭和32)

日本画・紙

42.0×52.0cm

川合玉堂は、明治から昭和の日本画壇に重きをなした巨匠の一人である。はじめは京都で修行したが、やがて東京に転じて橋本雅邦の弟子となり、師とともに岡倉天心の日本美術院創立に馳せ参じた。玉堂は、早くから才能を認められ、82年の生涯を閉じるまで常に画壇に枢要な地位を占め続けた。その画風は、この作品にも見られるように、空気の中に叙情を漂わせた写実というべきもので、玉堂こそ、日本の風景の麗しさを描く第一人者であった。
春夜
《春夜》

小林 古径

1883(明治16)-1957(昭和32)

日本画・絹

41.0×52.0cm

ミミズクが、丸い目を輝かせて梅の古木の枝に留まっている。フクロウ科の中で耳状の羽根を持つものをミミズクと呼ぶ。昭和期の院展を代表する巨匠であった小林古径は、墨の濃淡で頭の左右にぴんと張った羽根の質感を鮮やかに表現する。腹のふくらみの柔らかさも、輪郭線を用いない没骨(もっこつ)の技法で見事に描かれている。古径の品格ある筆致は、梅の頃の、凛として未だ肌に冷たい清冽な空気を捉えるのに真にふさわしい。
《薫》

杉山 寧

1909(明治42)-1994(平成6)

紙・パステル

48.5×31.9cm 1971年

これは、日本画の杉山寧画伯の珍しいパステル画である。愛媛県特産の蜜柑の皮の質感、青い釉薬を流した花瓶の白い肌の冷たさ、深緑の光沢を放つ葉と儚げで柔らかな椿の花びらの硬軟の対照、いずれもリアリズムに徹して見事に描かれている。画伯はパステルも見事に使いこなした。一方、まったく、奥行きも影もない不思議な空間にモチーフを浮かした構図は、実に日本画的な発想である。西洋の技法と日本の美意識が出会った、興味の尽きぬ一点である。
《花芙蓉》

中島 千波

1945(昭和20)-

日本画・紙

53.5×73.0cm

芙蓉は、夏から秋にかけて、白か薄紅色の美しい1日花を咲かせる。この作品では、細密な写実性と日本画の伝統を引く装飾性とが絶妙な混交を見せる。また、涼やかに彩色された花と蕾に、墨のたらしこみで表情豊かに描かれた葉を配するあたりに、作者の感覚の冴えが現れている。
《早春》

中村 岳陵

1890(明治23)-1969(昭和44)

日本画・紙

45.5×51.5cm

中村岳陵は、明治の半ばに静岡県下田に生まれた。東京美術学校を卒業後、院展の同人となって活躍する。朝廷に仕えた土佐派の大和絵の伝統を踏まえつつ、軽快な中間色と柔らかな描線を駆使して近代的な画風を確立した。ここでも、梅に鶯という典型的な季題を、新鮮な色彩を用いて活き活きとした近代好みの画面に仕上げている。戦後は日展に移り、一九五六(昭和三一)年には文化勲章を受けた。
《咲き残るひまわり》

野村 義照

1945(昭和20) -

日本画・紙

89.0×64.0cm

夕闇の迫る、ゆるやかな草の丘を一本の白い道が登っている。両側には夏を惜しむように、ひまわりが咲いている。丘の上には石造りの家があり、深い青の空を背景に松や糸杉がシルエットとなって佇む。イタリアの農村であろうか、たしかに異郷の風景ではあるが妙に懐かしい。野村義照は、しばしばヨーロッパを訪れて制作する。徹底して日本の古典絵画を研究した彼は、遠い異国の風月を心に染み入る美しい作品に仕上げて見せる。
《静宵》

東山 魁夷

1908(明治41)-1999(平成11)

日本画・絹

54.0×71.7cm

東山画伯は、若き日をドイツに暮らし、美術史を学んでいる。その時代に目に焼きついたヨーロッパの豊かな自然の風景が、後の画伯の造形感覚に大きな影響を与えた。画伯は、樹々を描くにしても、松の名木や桜の古木などではなく、円錐形に尖って天を指す針葉樹を好んだ。この作品も、1960年代初めの北欧旅行の際、スウェーデンで実見した風景に霊感を得て制作されたという。しかし、なお、そこには日本の叙情が深く濃く漂うのである。
《弦影》

稗田 一穂

1920(大正9) -

日本画・紙

101×82.8cm

満開の枝垂れ桜の古木の上空には細い月がかかり、まさに春爛漫の風情である。しかし、花の盛りは、この世の無常をことさらに意識させる時でもある。桜は間もなく散り始め、風が吹けば吹雪のように花びらが舞って、気がつけば季節は移っている。人々は、花の盛りが続かぬことを、自らの定めと重ね合わせて眺めやるのである。この作品は、現とも幻ともつかぬ美しい光景を描き、季節に寄せる日本人の心情を見事に表現している。
《白毫寺》

平山 郁夫

1930(昭和5) -

日本画・紙

72.8×53.0cm 1969年

平山郁夫は、いうまでもなく現代日本画壇最大の巨匠の一人である。《白毫寺》は、その平山が39歳の年に描いた前期の傑作である。それは、画伯のほぼ全ての画集を飾るほど、きわめて高い評価を受けている。白毫寺は、奈良の高円山の中腹にある古刹である。夏の日中、人気の絶えた参道には蝉の声のみが響く。直接に季節を表すのは木々の濃い緑であるが、画面には、乾いた石段や古寂びた築地塀が放つ夏の暑気までもが封じ込められている。
《風神雷神》

前田 青邨

1985(明治18)-1977(昭和52)

日本画・紙

196.0×107.3cm

この作品は間違いなく前田青邨の最高傑作の一つである。これが当美術館にあることは、愛媛県の美術界にとって真の僥倖と言わねばならない。「風神雷神」と言えば、京都の建仁寺所蔵の俵屋宗達による屏風(国宝)が知られている。もちろん青邨も、それを意識して描いたに違いない。しかし青邨は、色彩を抑え、巧みな線描によって踊るような動感に満ちた独自の宇宙を作り上げた。
《龍田の乙女》

森田 曠平

1916(大正5)-1994(平成6)

日本画・紙

53.5×41.5cm

ちはやぶる神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは
在原業平の歌にも詠まれ、古来紅葉の名所として知られた龍田(立田)の地は、秋を司る女神龍田姫の祭られる場所である。この作品に描かれた乙女も、神聖な常緑の葉をかざして秋を招来しているかのように見える。森田曠平は、艶やかな色彩の中に古代の神秘と風雅を見事に甦らせた。
初夏竹林
《初夏竹林》

横山 大観

1868(明治1)-1958(昭和33)

日本画・絹

126.5×49.6cm 1903年

これは、まさに名品である。近代日本画の最大の巨匠横山大観は、明治、大正、昭和を生きぬいた。その大観が、明治中頃の若き日に、岡倉天心の掲げる日本画革新の旗印の下で描いた記念すべき作品の一つが、この《初夏竹林》なのである。西洋美術を研究した大観は、日本画伝統の輪郭線を排し、印象派を思わせるような大気の表現を試みた。それ故、「朦朧体」などと嘲笑されたが、ここにこそ、日本画近代化の原点が印されたのである。
孔明
《孔明》

横山 大観

1868(明治1)-1958(昭和33)

日本画・絹

121.2×50.3cm

横山大観の歴史画の秀作である。大観は、しばしば古代中国の故事を画題として取り上げた。諸葛孔明は、三世紀の三国時代、蜀の建国者の劉備に仕えた宰相で、戦略家として名高い。劉備は、戦乱を避けて隠棲する孔明を幾度も訪ね、軍師として陣営に加わることを求めた。三顧の礼という言葉は、この故事から生まれた。大観らしい大胆な構図が、乱世の闘争に身を投じる決意を固めた孔明の張り詰めた心理を見事に表現している。
田家朝
《田家朝》

横山 大観

1868(明治1)-1958(昭和33)

日本画・絹

125.0×42.0cm

旧暦二月の頃であろう。梅の古木には白い花が咲いている。春まだ浅い早朝の張り詰めた冷気の中を、入母屋造りの屋根の破風から暖かげな薄い煙が立ち昇る。農家の集落を取り巻く里山の自然はあくまで穏やかであるが、金色に明け染める上空は神々しく輝き始める。人営みと天の移ろいとが織り成す美しくも懐かしい情景を描いた傑作である。なお、「田家朝」は歌会始の勅題であったと言う。
《暁富士》

横山 操

1920(大正9)-1973(昭和48)

日本画・紙

32.0×55.0cm

横山操は、雄渾の画家である。日本画の、どちらかと言えばたおやかな顔料を用いて、高層ビルの立ち並ぶ都市風景などを直線的な力強い筆致で描き切って見せた横山は、まさに戦後世代の日本画家の登場として、人々に新鮮な感動を以て迎えられた。赤く染まって圧倒的な存在感を示す富士山は、その横山が、しばしば取り上げた画題である。もちろん、そこには、日本美術の巨大な先達である葛飾北斎の「赤富士」への対抗の気概が込められていたのであろう。
《冬富士》

横山 操

1920(大正9)-1973(昭和48)

日本画・紙

50.5×65.0cm

横山操は、日本画革新の旗手であった。黒々と切り立つ太い線を用いて、風景が悲鳴を発するごとき絵を描いたこともあった。その横山も、四十代半ばの頃から日本画の伝統を強く意識するようになる。そして、多くの先達によって描き尽くされた富士の絵に、己の才能と力量を傾注して挑みかかった。この作品も、横山の富士の代表作の一つである。ここに描かれた山は、あくまでも気高く凛として美しい。
《黄鶺鴒》

上村 淳之

日本画・紙

46.0×61.0cm

黄鶺鴒は、雀くらいの大きさだが、細身で尾が長く、姿の良い鳥である。背は灰色であるが、胸と腹が黄色い。日本には広く分布し、一年を通して見られるが、北海道や東北で繁殖して、秋になると南下するものも多いので、季語においては「秋」の鳥とされて来た。現代花鳥画の巨匠である上村淳之は、色づいた楓の葉をかすめるように黄鶺鴒を飛翔させ、見事に季節感を表現している。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《ウォーターヒヤシンス》

上村 松篁

1902(明治35)-2000(平成12)

日本画・紙

59.0×42.0cm

ウォーターヒヤシンス、すなわちホテイアオイは、夏の水面に浮かんで薄紫の花を咲かせる。この植物は、熱帯アメリカの原産であるから、日本の7月や8月の気候などは元より苦にしない。暑さをものともしない強い生命力を備えているのである。しかし、その熱帯的エネルギーの発露である花は、あくまで清涼の佇まいを見せる。夏の画題として、花鳥画の名手である松篁に愛されたのも、その凛とした姿と清らな色の故であろう。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《飛ぶ黒い鳥》

加山 又造

1927(昭和2)-2004(平成16)

日本画・紙

60.0×72.5cm

まるで羽根をむしられたような鴉(カラス)が、飛びながら威嚇の声を上げている。この嫌われ者の黒い鳥を、加山又造は、初期から後年まで繰り返し描き続けた。「鴉には、私と共通の感覚があるように思える」と語った画伯は、鴉に、群れに身をおきながらも孤独を愛する自分自身の姿を投影したのかも知れない。画壇の頂点に立ちながら、この巨匠の心には、孤高の表現者としての寂寞の思いが秘められていたのであろう。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《月山》(1999年作)

今野 忠一

日本画・紙

53.0×73.0cm

今野忠一画伯は、山形県天童市の生まれである。したがって、月山は故郷の山であった。もっとも、天童からはこの山を望むことはできない。しかし、山形随一の名峰で、古くから修験道信仰の拠り所であった月山には深い思い入れがあったという。晩秋近く、裾野の紅葉は濃厚に赤く、頂から中腹にかけては既に白く冠雪している。東北の自然の、この厳しさと無垢な美しさとが、今野画伯の美意識を育てたのに違いない。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《染めゆく》

小泉 智英

日本画・紙

46.0×61.0cm

巡る季節の中でも、秋はことさらに美しい。近づく冬の冷気を含んだ風が樹間を吹き抜け始めると、木々の葉は、黄に赤に染め上げられて行く。山々から麓へと響き渡る色彩のシンフォニーは、少しパテティークな(悲愴な)旋律を奏でて私たちの心を揺さぶる。40年以上にわたって堅実な活動を続け、画壇に確固たる地位を築いた日本画家の小泉智英は、秋を描く名手である。この季節の美しさと哀しみを捉えて見事である。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《緑深》

坪内 滄明

日本画・紙

50.2×65.3cm

坪内滄明は、写実を極めた画風で知られた日本画家である。四季折々の自然を見詰め、清冽な叙情を感じさせる風景画を制作した。緑深まる季節の森を描いた『緑深』も、坪内の典型的な作例の一つと言えよう。画面からは、湿った木々の放つ芳香が漂い、鳥の鳴き声が聞こえて来るかのようである。絵の前に立てば、まるで森の中に踏み入った気分になる。そこに、この作品の魅力がある。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《桃花》

前田 青邨

日本画・紙

27.0×37.5cm

今年も、花の季節が巡って来た。まだ冬が居座っていた2月、ちらほらと暖かい日が交じるようになると、まず梅が咲いた。それからひと月ほど、3月の半ばには、南から桜の便りも聞こえ始める。そして、春爛漫の4月、はらはらと桜の散る頃、今度は、淡い紅や白の艶やかな桃の花が、私たちの目を楽しませてくれる。この小さな絵も、青邨が、そのような季節の巡りに心を添わせて描いたものである。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《秋の気》

牧 進

日本画・紙

44.5×59.0cm

秋風が立ち始めると、夏の間はせわしく働いていた扇子も使われる機会が少なくなる。ところで、その扇子の絵の図柄は、案外に菊や萩、そして紅葉など、秋の風物が多い。これは、暑熱の候に、せめて煽ぐ風には次の季節の爽やかさを感じよう、という工夫である。今、まさに酷暑の中でこの原稿を書いている。そして、この絵を見詰めれば、つくづくと秋を思う。縁先の庭には冷涼の気が吹き渡り、すだく虫の音が耳に響く。けたたましい蝉は鳴りを潜め、植込みの陰から蟋蟀(こおろぎ)の声が聞こえ始める。立ち去ろうとする夏を見送るように秋の花々が咲き急ぎ、やがて山々から里へと下ってくる紅葉への期待が高まり、人々は旅心に駆られるようになる。日本画は、昔から、年々歳々繰り返される四季の移ろいに寄り添って来た。この佳品も、その典型的な作例である。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《夏日》

牧 進

日本画・紙

33.4×45.5cm

この花の名は、仏桑華、近頃ではハイビスカスと呼ばれることが多い。マレーシアの国花であり、ハワイの州花でもある。沖縄では、古くから生垣に仕立てられ、夏の陽光に照らされて多くの赤い花を咲かせている。もちろん、季語は夏、この絵を一点飾れば、その空間全体が夏になる。日本画は、四季の移ろいに心を添わせて暮らしたい私たちには、欠かせない仕掛けなのである。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《椿》

山口 蓬春

日本画・紙

35.5×38.5cm

椿は早春に咲き出す。「春は名のみの」時節に、艶やかな花で私たちを楽しませてくれる。自生するのは、日本、中国、朝鮮半島であり、東アジアを代表する花木の一つと言えよう。我が国でも古くから愛好されて園芸種も数多く作られ、しばしば画題としても取り上げられた。昭和の日本画を新鮮な造形でリードした蓬春の椿は、あくまでくっきりと存在を主張する。小品ながら、豪奢な一点である。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《彩鱗》

川端 龍子

日本画・紙

66.0×84.0cm

若き日の川端龍子は、洋画に志し、アメリカに遊学した。しかし、ボストン美術館で見た平治物語絵巻に感動し、帰国後に日本画に転向する。彼の作風に、伝統の枠組みに囚われない雄大な感覚が見られるのは、そのような経歴の故かも知れない。この作品も、日本画では有りふれた鯉をモチーフに描きながら、生命感〓れる逞しさを示す。龍子は、その堂々たる作風によって、昭和を代表する巨匠の一人となったのである。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
初夏竹林
《海暾》

横山 大観

1868(明治1)-1958(昭和33)

日本画・絹

42.2×50.5cm

花咲翁
《花咲翁》

小杉 放庵

1881(明治14)-1964(昭和39)

日本画・紙

55.0×50.0cm

《涼気》(1946年)

今野 忠一

蕗が、傘のように葉を広げている。夏の初めの雨模様の日であろうか、既に成熟した深緑の葉陰には小さな蛙が雨宿りをする。そして、涼しげな色彩の若い蕗が、まもなく訪れる季節の盛りに己の晴れ姿を誇示しようと、急ぎ足で育ちつつある。一方、画面の右下隅に目を転じれば、病葉(わくらば)が、早くも、やがて夏の終わりが来ることを予告している。季節の移ろいに無常観を託して詠うことは、古来、日本美術の重要なテーマであった。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《夜桜》

加山 又造

1927(昭和2)-2004(平成16)

1982年

桜は、春にまつわる種々の想いを象徴する花である。冬を過ごして暖かい季節を迎えた喜び、そして、吹雪のように散る花を見て感じる浮世の儚さ(はかな)。古来、桜は、歌人や絵師の霊感の源であり、多くの優れた創作の契機となった。京都に生まれ育った加山又造が、桜を詠う(うた)伝統に連なって多くの花の絵を残したのは当然のことであった、と言えよう。そして、この《夜桜》は、絢爛にして何処か恐ろしく、画伯の心奥を垣間見させる(かいま)秀作である。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《冬》

加山 又造

1927(昭和2)-2004(平成16)

《冬》は極小の作品である。寸法は0(ゼロ)号にも満たない。しかし、その表現する世界は深い。舞台装置のように象徴化された木々に囲まれて、ぽっかりと空間が広がる。もちろん、今は、すっかり雪と静寂に覆われている。そこを、イタチのような小動物が、こちらに警戒の視線を向けながら横切って行く。大きな無音の森の中で、独り生を営む動物。その孤立しながら怯(ひる)まぬ姿に、独り画道探求の旅を行く三十六歳の画家は、己を重ね合せたのかも知れない。
阿部信雄
《水郷》

牛島 憲之

1900(明治33)-1997(平成9)

油彩・カンヴァス

38.2×45.7cm

牛島画伯は、19世紀最後の年に生まれ、20世紀も末の1997年に亡くなられた。つまり、画伯は、ほぼ20世紀全般にわたる生涯を送られたのである。
画伯は、東京美術学校を1927(昭和2)年に卒業されたが、その学年は、まさに「当たり年」であった。小磯良平や荻須高徳など、その作品がセキ美術館の壁を飾る巨匠たちが同期生である。牛島画伯は、学校時代の成績は芳しくなかったが、着実に画家としての歩みを進めて、やがて独自の画風を確立する。それは、穏やかな光に満たされた静謐な風景画であり、そこには、人々の心を癒す安らかな詩情が溢れている。この《水郷》は、まさに画伯が到達した独特の境地を典型的に示す秀作と言えよう。全てが静止していながら、ここには生命が満ちている。不思議な空間なのである。
《池畔》

梅原 龍三郎

1888(明治21)-1986(昭和61)

油彩・紙

74.0×92.2cm

梅原龍三郎は、1950(昭和25)年の夏、軽井沢で浅間山を描き始める。つまり、《池畔》は梅原が描いた数多くの浅間山の絵の初期のものの一つであり、まさに記念すべき作品なのである。梅原らしい鮮やかな色彩によって、高原の澄み切った空に煙を吐きながらそびえ立つ雄大な活火山と、鏡のように別荘や木々の姿を映す人工の池とが同じ画面に捉えられている。庭先から強烈な存在感を示す浅間が眺められる軽井沢は、梅原のお気に入りの制作場所であった。
建設地帯
《建設地帯》

岡 鹿之助

1898(明治31)-1978(昭和53)

油彩・カンヴァス

38.0×45.5cm

岡鹿之助が、戦中のスランプを脱し、再び本格的な充実期を迎えるのは、1950年代の半ばである。この《建設地帯》も、その時期に制作された秀作の一つである。丘上に張り付くように描かれた家や石垣は、新たな建設のための拠点とも思えるが、実は廃墟のようでもある。岡芸術が完成を迎えたこの時代の典型的モチーフとして、無人の廃墟がある。この作品はそれに連なるものと言えよう。岡の孤高の精神を伝えて、観る者を静かに独特の世界へと誘う。
三色菫
《三色菫》

岡 鹿之助

1898(明治31)-1978(昭和53)

油彩・カンヴァス

45.0×37.5cm

岡鹿之助にとって、花は、非常に重要な画題であった。とくに1950年代に入ると、好んで花を描くようになる。中でもパンジー(三色菫)を愛し、栽培家を訪ねて観察を重ねたりもした。この《三色菫》は、パンジーを描く連作の代表例であり、その特質を良く示す傑作である。岡の「花」は、ほとんどが正面を向いていて、まるで人間の顔のようにも見える。彼は、花の絵によって、人間という存在の不思議を暗示しようとしたのかも知れない。
ラヴェル礼賛
《ラヴェル礼賛》

岡 鹿之助

1898(明治31)-1978(昭和53)

油彩・カンヴァス

50.0×61.0cm

昭和の洋画壇の巨匠の一人である岡鹿之助は、大正末期の1925年、26歳でフランスに渡り、約15年間を彼の地に暮らした。それは、岡にとって、フランスの風土と美術と音楽から常に芸術的霊感を与えられた至福の一時期である。《ラヴェル礼賛》も、そのフランス時代に描かれ、まさに名品と呼ぶに相応しい一点である。なお、岡は、フランスの楽曲の中でも、とくにラヴェルの「ボレロ」を愛好した。ここには、その思いが、素直に表現されている。
《魚市場》

荻須 高徳

1901(明治34)-1986(昭和61)

油彩・カンヴァス

59.3×72.7cm

ヴェネツィアは不思議な都市である。干潟に造成された人工の地盤の上に、教会や邸館がびっしりと建ち並ぶ。しかも、それらのほとんどが歴史的建造物なのである。ヨーロッパの人々も、このヴェネツィアを「もう一つの世界=異次元空間」と呼ぶ。26歳の時から、戦中と戦後の一時期を除く40年間をパリに暮らした荻須にとっても、ここは特別の感銘を与える場所であったに違いない。1950年代の半ばから、彼は、しばしばヴェネツィアに滞在して制作した。
《牡丹》

香月 泰男

1911(明治44)-1974(昭和49)

油彩・カンヴァス

44.0×26.0

香月泰男は、一九四二年、三十一歳で徴兵され、満州へ送られた。敗戦を中国で迎えた香月は、帰還しようと朝鮮へ向かう途中でソ連軍に捕らえられ、シベリアへ連行された。そして、一年半にわたって抑留され、あらゆる辛酸をなめ尽くしたのである。香月の作品では、絶望と希望が常に交錯する。この《牡丹》でも、荒野を思わせる黄土色の背景を凍土のような黒い帯が横切り、その前で美しい花が咲き誇っている。闇の果てに見た光こそ最も輝かしいのである。
ヴェニス
《ヴェニス》

金山 平三

1883(明治16)-1964(昭和39)

油彩・カンヴァス

32.5×41.0cm

ここに描かれているのは、水の都ヴェニスのサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会である。
17世紀バロック建築の名作の一つに数えられるサルーテ教会は、ヴェニスを貫くカナル・グランデー大運河左岸の突端に建っており、まさにランドマークの役割を担っている。大運河を船に乗って行き来する金山の目にも、その姿は、印象深く焼きついたに違いない。
本作は、金山らしい格調の高い筆致で荘厳な教会の佇まいを見事に表現して、まさに佳品と呼ぶべき一点である。
馬を選ぶ
《馬を選ぶ》

国吉 康雄

1898(明治31)-1978(昭和53)

油彩・カンヴァス

41.3×31.0cm

岡山市に生まれた国吉康雄は、一七歳でシアトルに渡る。初めは肉体労働に従事するが、やがて奨学金を得て、ロスアンゼルスとニューヨークの美術学校で絵画の修業を重ねた。彼の才能を見出したのも、教育の機会を与えたのもアメリカであった。そして国吉が描いたのは、「アメリカン・シーン=アメリカの情景」である。疲れた表情で競馬新聞を見ながら馬券を選ぶ女性。この絵も、彼の絶頂期の典型的な作例の一つである。
ブレハの村童
《ブレハの村童》

黒田 清輝

1866(慶應2)-1924(大正13)

油彩・カンヴァス

40.7×27.5cm

黒田清輝は、まことに恵まれた人であった。明治新政府の中枢にある軍人貴族の一門に生まれ、17歳でフランスへ留学し、10年以上にわたる絵画の修行の後に帰国するや、明治の洋画界の中心に祭り上げられる。しかし、フランス滞在中の黒田は、むしろ下層の人々に共感を寄せた。ブルターニュのブレハ島の貧しい子供たちを描く《ブレハの村童》は、この画家のフランス時代の特質を示す重要な秀作の一つであり、そこには、幼く弱い者たちに注ぐ彼の温かい眼差しが感じられる。
《峠ぶきに蝶》

熊谷 守一

1880(明治13)-1977(昭和52)

油彩・板

24.0×33.2cm

極限にまで単純化された画面である。鮮やかな黄色の蕗の花を訪れて舞う白い蝶。すべての形が単純化され、色彩も陰影なく均一に塗られ、背景には何も描かれていない。それでいて生き生きと自然の息吹が伝わってくる。これは、熊谷守一の84歳の作品である。晩年の守一は、まさに枯淡の境地に生きた。文化勲章も勲三等も辞退し、組織にも属さず自由きままな制作を貫いた。
《少女》

小磯 良平

1903(明治36)-1988(昭和63)

油彩・カンヴァス

89.0×71.5cm 1953年

小磯良平は、日本においてヨーロッパのアカデミックな描法を駆使する第一人者であった。ルネサンス以来の古典主義の伝統を汲み、端正な人物像を最も得意とした。人体や静物の立体感を表現するための明暗法と、画面に自然な奥行きを与えるための数学的遠近法とは、アカデミズムにとって必須の基礎的技術である。小磯は、それらを無視して故意に描写や構図を歪めようとした近代絵画の大きな潮流の外に立って、古典的様式美を求め続けた。この《少女》は、彼の人物像の典型を示す秀作である。
《窓の静物》

小磯 良平

1903(明治36)-1988(昭和63)

油彩・カンヴァス

53.5×46.0cm

ヨーロッパにおいてルネサンスから古典主義、そして新古典主義からアカデミスムへと継承された正統に就くことを、モダン・アート百花繚乱の時代に敢えて決意したのが小磯良平であった。小磯が最も得意としたのは、端正なポーズを取る女性を描いた人物像である。しかし、このような静物画にも画家の確固たる技倆と品格ある作風は明らかに現れる。清澄な空気が感じられるような作品である。
《道》

小絲 源太郎

1887(明治20)-1978(昭和53)

油彩・カンヴァス

24.5×33.5cm

小絲源太郎は、日本のフォーヴ(野獣派)を代表する一人である。彼が画壇にデビューする直前、パリではマティスらフォーヴの画家たちが大センセイションを巻き起す。小絲は、彼らの大胆に単純化された構成を取り入れながら、柔らかな色彩を用い、叙情的とも言える独自の画風を確立する。この《道》も、激しい筆づかいにもかかわらず、どこか懐かしさを感じさせる秀作である。
《杏丘》

小絲 源太郎

1887(明治20)-1978(昭和53)

油彩・カンヴァス

60.6×50.0cm

小絲源太郎は、昭和の洋画壇を代表する画家の一人である。その単純明快な画面構成と筆遣いには、はっきりとマティスやヴラマンクなどのフォーヴィスム(野獣派)の影響が見られる。しかし、優しく繊細な色彩は、この画家独特の境地であり、日本の感性の顕れともいえよう。いまだに雪を戴いた遠山と春の花に飾られた杏の林を描いた当作は、まことに小絲らしい秀作である。画家は1965(昭和40)年に文化勲章を受けた。
ダリア
《ダリア》

児島 善三郎

1893(明治26)-1962(昭和37)

油彩・カンヴァス

46.0×38.0cm

児島善三郎は、1930年に結成された独立美術協会の創立会員の一人である。「新時代の美術の確立」を唱えて結成された同会は、当時の日本における前衛の代名詞であった。そのメンバーの多くは、20世紀初めのフランスに興ったフォーヴィスム-野獣派の絵画に影響を受け、鮮烈な色彩と単純化されたフォルムを駆使した。児島の「ダリア」も、そのような初期の「独立」の画風を典型的に示す佳品である。
静浦の朝
《静浦の朝》

児島 善三郎

1893(明治26)-1962(昭和37)

油彩・カンヴァス

46.0×54.0cm

児島善三郎は、若き日の5年を病気療養に過ごし、ほぼ独学で絵画の技倆を磨いた。1930(昭和5)年、林武らとともに独立美術協会を創立、洋画革新の陣営に身をおく。児島は、日本の伝統とヨーロッパ近代の潮流との融合を掲げ、大胆に単純化された対象を繊細微妙な色彩で描き、のびのびとして暖かい独自の画風を確立した。この絵も、その典型的な作例である。なお、セキ美術館の調査によれば、60歳を過ぎて再び病を得た児島は、沼津市の近くにあってアクセスの楽な静浦を好んで訪れたという。
《桃の静物》

鈴木 信太郎

1895(明治28)-1989(平成元)

油彩・カンヴァス

46.0×38.0cm

南国的な伸びやかさと自由な筆使いが、鈴木信太郎の特質である。この作品も、新鮮な桃の瑞々しさと芳香までも伝えて、見る者の心を寛ぎと幸福感で満たしてくれる。鈴木は、梅原龍三郎や安井曽太郎より三年の年長で、彼らとともに昭和の洋画壇、とくに戦後の一時期を代表する作家である。ダイナミックな構図と、原色を多用しながらも日本的な調和に至る独特の色感で、復興と発展の時代を彩り続けた。
《にえもん島》

曽宮 一念

1893(明治26)-1994(平成6)

油彩・カンヴァス

33.0×53.0cm

仁右衛門島(にえもんじま)は、房総半島南端に近い鴨川市の海岸の目前に浮かぶ奇岩に覆われた景勝地で、島内には、今も中世からの領有者である平野家一軒のみが暮らしている。手漕ぎの小船で島に渡れば、そこには歴史の中に留まっているような小宇宙がある。曽宮も、奇岩に立って太平洋からの風に身をさらし、強い感銘を覚えたに違いない。実に生きいきとこの別天地を描いている。
裸婦
《裸婦》

寺内 萬治郎1890

1980(明治23)-1964(昭和39)

油彩・カンヴァス

45.5×38.0cm

寺内萬治郎(一八九〇~一九六四)は、女性の裸身をメインテーマに描き続けて高い評価を得た最初の画家の一人であった。この作品も、彼の典型的な作例である。身を折って自ら抱え込む女性の豊かな肉体が、単純な臙脂色の背景に鮮やかに浮かび上がる。生き生きとした肌の描写は、この画家の優れた特質と言えよう。女性の母性と官能へ憧れが率直に表現され、しかも品格を失わぬ佳品である。
《芦ノ湖の春》

中野 和高

1896(明治29)-1965(昭和40)

油彩・カンヴァス

50.2×61.0cm

芦ノ湖のある箱根は、軽井沢とともに、日本を代表するリゾートとして発展してきた。東京から近いのが利点で、古くから有力な政治家や実業家が別荘を構え、伝統と格式を誇るホテルも軒を並べる。大洲の生まれと伝えられる中野和高も、箱根にしばしば遊んだのであろう。これは、緑の輝き始めた山間リゾートの春の心地よさを、彼らしいゆったりとした筆致でとらえた爽やかな秀作である。
《古風な首飾り》

中山忠彦

1935(昭和10)-

油彩・カンヴァス

72.0×60.0cm

中山忠彦は、堂々と絵画の王道を歩む。画伯は、ヨーロッパのアカデミックな画法を継承し、それを日本という異郷の環境の中で活かしきろうと覚悟を固めた作家なのである。その求めるところは、美であり、完成である。描かれる華麗な衣装は、自ら収集し所蔵する中から選ばれる。そして、モデルは、常に夫人が務める。全ての作品が、夫人への変わらぬオマージュ(賛辞)なのである。
《薔薇》

林 武

1896(明治29)-1975(昭和50)

油彩・カンヴァス

53.0×46.0cm

林武の絵は激しい。塗るというより抉るように分厚くこすり付けられた油絵具が画面を支配し、濃密な赤や黄や青を主調とする色彩は黒々と太い輪郭線によって強度を増す。このような林の様式の源は、彼自身も示唆したように、20世紀初頭のパリに衝撃を走らせたマチスやヴラマンクなどのフォーヴィスム-野獣主義-にあることは間違いない。しかし、直情的で官能的であるように見えながら、林は一面では知性主義者でもあった。彼は伝統の浅い日本の「洋画」がフォーヴィスムにいきなり飛び付くことの危険を十分に認識していた。そして研究を重ねて昭和30年代に至り、日本の伝統の装飾性とヨーロッパから学んだ堅牢な構成の融合を実現し、さらに彼自身の内面の激しさを率直に表現する独自の様式を確立したのである。この《薔薇》も、その成熟期の代表作例の一つである。
ヴェニス
《ヴェニス》

藤島 武二

1867(慶應3)-1943(昭和18)

油彩・板

32.5×23.5cm 1908年

ヴェニス、すなわちヴェネツィアは不思議な場所である。世界中どこを捜しても、ヴェネツィアのようなところは見つからない。イタリアが、小さな都市国家に分かれていた中世のころ、外敵の侵攻に手を焼いたこの地方の人々は、潟に無数の杭を打ち込んで、海を外堀とする難攻不落の人工島を造り上げた。この海上都市には大小の運河が通じ、そこを行き来する舟が市民の交通の手段となっている。藤島武二も、イタリアに遊学した1908年頃にヴェネツィアを訪れ、その独特の情緒に心惹かれたらしい。長い歴史の明と暗とを飲み込んで、昔と変わらぬ姿で佇むこの都市では、あらゆる場所が画家に魅力的なモチーフを提供する。両側から家並みが迫る小運河の一角を描いたこの作品は、日差しが作る光と影のコントラストを見事に捉え、ヴェネツィアの表情をよく伝えている。小品ながら、格調のある秀作である。
《婦人像》

藤田 嗣治

1886(明治19)-1968(昭和43)

水彩・紙

66.6×49.3cm

藤田は、1920年代のパリで華やかな成功を収めた。しかし、栄光の日々は長くは続かない。1929年の世界経済恐慌の直撃を受け、パリで豪勢な生活を送った藤田も一気に困窮に陥る。しかし、ほぼ20年ぶりに戻った日本も安住の地ではない。この端正で美しい肖像画が描かれた頃、すでに日中戦争は始まっており、藤田も戦時体制に組み込まれつつあった。画面に漂う孤独感は、藤田の戸惑いの反映でもあろうか。
《花》

三岸 節子

1905(明治38)-1999(平成11)

油彩・カンヴァス

73.0×60.0cm

2005年は、三岸節子の生誕百年に当り、その長い画業を回顧する記念の展覧会が各地を巡回して開催されている。彼女は、1999年に94歳で没するまで、常に前衛的な立場を貫いた。この作品でも、鮮烈な赤い絵具を分厚くたたき付けるように用い、大胆に単純化されたフォルムで力強く花を描く。命あるものに寄せる深い共感が表現された、いかにも三岸らしい一点である。
《ぶどう》

宮本 三郎

1905(明治38)-1974(昭和49)

油彩・カンヴァス

32.0×41.0cm

宮本三郎は、独特の色彩感覚を持っていた。この作品においても、抑えた色彩を使いながら、穏やかで温かみのあるハーモニーで画面を満たしている。ここには、いわば室内楽を聴くような滋味がある。また、写実を基本にしながら、造形に柔らかなデフォルメ(歪み)を加えて見る者の視線を優しく受け止め、まるで茶陶を眺めるような楽しみも与えてくれる。宮本は、洋画技法を用いて日本的な美意識を表現したのである。
風景
《風景》

和田 英作

1874(明治7)-1959(昭和34)

油彩・カンヴァス

72.2×90.8cm

和田英作は、日本洋画の父と呼ばれる黒田清輝と同じ鹿児島に生まれた。彼は、この同郷の先輩の忠実な弟子となり、フランス留学の際も黒田の師ラファエル・コランの門をたたく。奇しくもフランス印象派デビューの年に生まれた和田は、2人の師を通じて印象主義的な外光表現を会得した。この作品でも、雪の消え残った畑地に差す陽光の陰影を見事に描いている。まさに外光派の面目躍如である。
《少女像》

小磯 良平

油彩・カンヴァス

75.0×50.0cm

小磯良平は、まさに昭和という時代を生きた画家である。東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業したのが1927年、すなわち昭和2年で、亡くなったのが昭和63年、つまり平成に改元する前年であった。15年におよぶ長い戦争があった時代の荒波に翻弄されながらも、小磯は、一筋に、ヨーロッパ古典絵画技法の継承とその日本的展開に邁進し続けた。《少女像》は、大戦中に描かれた作品ではあるが、端正な表情とプロポーションに、そして磨かれた技量そのものにも、ヨーロッパの伝統への憧憬が現れている。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《かいうと伊賀壺》

鳥海 青児

油彩・カンヴァス

40.0×31.0cm

「かいう」というのは花の名で、海芋と書く。サトイモ科の球根植物で、育てるには水辺が適するらしい。洋名はカラー、原産地は南アフリカである。近頃は切花としてポピュラーになったが、その姿形は、やはり私たちの目には異国的に映る。この花を、焼成する火の痕跡が侘びた風情の古伊賀の壺に挿し、鳥海は対照の美を楽しんだのであろう。水墨画のような強い筆使いと押さえた色彩に、禅の境地を感じさせる佳品である。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《コーヒーひきの静物》

中村 清治

油彩・カンヴァス

45.0×33.0cm

中村清治は、1935(昭和10)年に神奈川県に生まれ、後に東京藝術大学油画科を卒業した。中村には、優れた風景画や肖像画もあるが、このような静物画にこそ、その精神の本質が現れていると言えよう。凝視された「物」たちは、彼らの存在の神秘を語り始める。しかし、秘密の全てを開示することなく、また日常のありふれた姿に戻って行く。微妙なソフト・フォーカスは、その「もどかしさ」を表現しているのかも知れない。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《花のブラウス》

中山 忠彦

油彩・カンヴァス

41.0×32.0cm

中山忠彦は、ヨーロッパの、古典主義に基づくアカデミックな絵画表現の継承者たらんとする画家の一人である。華麗にして端正な美を求めて、ヨーロッパのアンティーク・コスチュームや民族衣装を収集していることでも名高い。そして、それらをまとうのは、常に彼の妻である。画家は、妻の美貌にオマージュ=賛辞を捧げ、妻は、モデルとして身じろぎもせずに座り続けて夫に献身する。この作品は、麗しき二重唱なのである。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《マニラの子供》

脇田 和

油彩・カンヴァス

41.0×31.0cm

脇田和(わきた・かず)は、明るく柔らかな色彩で、鳥や花などの身近な存在を慈しむように描き、昭和の洋画壇に独自の地歩を築いた。しかし、この作品は些か異色である。太平洋戦争たけなわの頃、日本占領下のマニラに従軍画家として赴いた脇田は、路上に暮らす子供達の姿を目の当たりにした。彼の深く静かな憤りと悲しみに満ちた愛情が、柔和な色に込められて、無力な物乞いの少年を包み込む。脇田の秀作の一つと言えよう。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
《岬の村》

中根 寛

油彩・カンヴァス

50.0×65.0cm

まさに「清澄」と形容するに相応しい風景である。作者の中根寛画伯は、日本における油絵の完成者というべき大家である。明治初期に本格的に西洋画法を学び始めてから140年、その模索と探求の集大成が、中根画伯の作品には籠められている。この《岬の村》は、1994(平成6)年にフランスを旅された際に、スイスに入って取材された湖畔の景観を描いたものであるという。画面に透明な初夏の風が吹き渡る、美しい佳品である。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)
海浜図
《海浜図》

下村 為山

1886(慶応1)-1949(昭和24)

油彩・カンヴァス

30.0×91.0cm

雪景図
《雪景図》

下村 為山

1886(慶応1)-1949(昭和24)

油彩・カンヴァス

50.0×81.0cm

京都風景
《京都風景》

浅井 忠

1856(安政3)-1907(明治40)

水彩・紙

28.8×46.0cm

風景
《風景》

藤島 武二

1867(慶應3)-1943(昭和18)

油彩・カンヴァス

37.0×44.0cm

バラ
《バラ》

和田 英作

1874(明治7)-1959(昭和34)

油彩・カンヴァス

33.5×24.5cm

風景
《風景》

長谷川利行

1891(明治24)-1940(昭和15)

油彩・カンヴァス

8.5×12.5cm

秋景
《秋景》

須田国太郎

1891(明治24)-1961(昭和36)

油彩・カンヴァス

45.5×53.0cm

ばら
《薔薇》

須田国太郎

1891(明治24)-1961(昭和36)

油彩・カンヴァス

22.0×27.0cm

鷲
《鷲》

須田国太郎

1891(明治24)-1961(昭和36)

水彩・紙(色紙)

27.0×24.0cm

《パンジー》

小絲源太郎

324.5×33.5㎝ 1971年

小絲源太郎は、生粋の江戸っ子である。上野の不忍池の近くの生まれで、実家は代々料理屋を営んでいた。小絲の作品に漂う粋な軽やかさは、成長する過程で、身辺を取り巻く空気が育んだものであろう。この小品も、まことに小絲らしい一点である。肩肘張らず、俳句のように季節を表現する。実は、絵の裏には、当館館長への献辞ともに、「さす汐に余寒の空をうつしけり」という画家自作の春の句が書かれている。
阿部信雄(美術評論家・セキ美術館顧問)